2019年09月17日

「ロケットマン」20190916(少しネタバレあります)

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9/16 エルトン・ジョンの半生を描いた「ロケットマン」を観てきた。

僕がエルトン・ジョンの曲と出会ったのは、昭和48年11月4日付けのチャート。ラジオ関東の「全米トップ40」に「Goodbye Yellow Brick Roard」が62位から40位に初登場した時だった。歌謡曲しか知らなかった僕に、同級生の女子が、ビートルズを教えてくれ、「全米トップ40」も知り、聞き始めて2週目のことだった。歌詞の内容はわからなかったけれど、「Blues…Ah…ahahah」と歌う時のファルセットのコーラスに、うっとりした思い出がある。中学2年のこと。僕はそれからずっとエルトンのファンである。

エルトンの低迷期は、リアルタイムで知っている。作詞をずっと担当してきたバーニー・トーピンと離れたことから始まった。暗い曲が増え、つまらなく感じた時期。映画の中でも表現されているが、孤独で誰のことも信じれなくなった時期だ。エルトンは急にスターダムにのし上がってしまい、周りの期待を背負って生きていた。また同時に自分がゲイであることもしっかりと自覚していたが、母親にそのことを話したとき、そんなことはとっくに知っていたと言いながら、誰にも言わないようにエルトンに口止めした。母親がどういう気持ちで言ったかはわからないが、一番自分らしくしたいところを止められたのは、辛かったのだと思う。

全編、エルトンの素晴らしい音楽がちりばめられているが、内面的で、心を締め付けるような歌詞が多い。ずっとそばで歌詞を書いていたバーニー・トーピンが当て書きをしていたのかもしれない。大スターであることとゲイであることの狭間で苦しみ、薬物やセックスに溺れていき、孤独感が増していくところは、とても辛かった。

僕がゲイであることを隠して生きている時代に抱いていた感情と重なった。そのときは苦しいなんて感じてはいなかったのだけれど、真綿で首を締められるように、ジワリと心が荒んでいっていた。一時の快楽だけを求めて、将来の展望がなかった時代。今はその時代があったからこそ、同性婚訴訟の原告をしようと思ったわけだし、悔いてはいないけれど、もしも中学生の頃に同性婚があったら、生き方が違っていただろうと思う。

今はエルトンも男性と結婚をしている。子どももいる。やっと自分を偽らない生き方ができているのだろう。この映画でエルトンは製作総指揮をしている。パンフレットにも詳しいコメントがあるが、他人には話したくないであろうハチャメチャな時も描いている。ある面からみるとエルトンへの評判を落としてしまうかもしれない内容だ。しかし僕はエルトンからの愛のプレゼントに感じた。自分を偽らない生き方の大切さ、どんなに苦しんでいても、命を続けていれば、幸せな日も来る…と。

エルトンの誕生日が、僕と同じ3月25日と知ってから親近感が強くなったが、
この映画を見て、もっともっとエルトンが好きになった。
エルトンが、僕らにくれた最高のプレゼントを受け取りに行ってみませんか。
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2017年08月19日

とりあえず

無事に退院しました。仕事にも復帰しています。詳しくは改めて報告します。
posted by いく at 11:30| Comment(0) | ぷらっと呟く。…つぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月08日

「故郷を帰れる街にしたい」東京レインボーパレード

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「故郷を帰れる街にしたい」青森の友人、翔子さんの言葉である。
先月、青森のレインボーパレードを歩いたとき、東京のそれとは違う緊迫感を感じた。
表に出るということは、批判や攻撃も全部引き受けることになる。
想像を超える批判や攻撃が押し寄せ、潰されそうになることもある。
地方はその圧力が強い。だからこそのメッセージ。
そのメッセージが消されてしまった。
(詳しくは公式HPで。http://tokyorainbowpride.com/news/notice/4177

東京レインボーパレードの共同代表も友人で、このままにしておけなかった。
この出来事をお互いの活動にとって一番良い形にするには、どうしたら良いか。
僕の答えは、そのプラカードを持って、東京のパレードを歩くということ。
そこで翔子さんの意向を聞いて、持って歩くことを提案した。
結果として、僕らに託してもらうことになった。
僕らと同じように考えていた人は、大勢いて、
「故郷を帰れる街にしたい」のプラカードをいくつも見かけた。
プラカードを見て、「青森の?」「翔子さんの?」と声をかけてくれたり、
記念撮影をして、翔子さんに送りたいという人たちが多かったこと…。
メディアの人たちにもこの言葉は響いたようだった。
https://mainichi.jp/articles/20170507/k00/00e/040/184000c

4番目「LGBTの家族と友人をつなぐ会」のフロートを歩いた。
沿道からもいっぱいの応援をもらったが、
一緒に歩いている人たちにも青森の思いを伝えたかった。
23番目のフロートが到着するまで、GOALでプラカードを持って迎えることにする。
何人の人たちとハイタッチをしただろう。こんな経験は初めてだった。
自分たちのために歩くことも大切だが、
こうして誰かの思いを抱きながら歩くことって、もっと大切なのかもしれない。
パレードに参加できない人たちや、
当事者でもパレードに反対の人たちもいる。
故郷で生きづらく、都市に出てきている人たちもいる。
故郷を出ることができない環境で、辛い思いを抱えている人たちもいる。
東京に住んでいたって、本当に自分らしく生きられていない人たちもいる。
その人たちも含めて、生きやすい社会を目指さなければ、パレードの存在意義は薄れる。
そうでなければ、LGBTはブームで終わるだろう。

東京のパレードは、東京の人たちためだけのものではない。
そのニュースは、全国、いや全世界に届いている。
だからこそ故郷がある人にとっても、東京が故郷の人にとっても、
「故郷を帰れる街にしたい」は大切なメッセージだったのではないか。
このプラカードを見て、涙が止まらなかった人がいたと聞いた。
そう感じてくれた人が一人でもいたことは、歩いた甲斐があった。

しかし未だに「故郷を帰れる街にしたい」が外された意味がわからない。
ひとつだけ外すということはあってはならないことだと、僕は思う。

(企業の参加も多かった。「RENT」でお世話になっているシアタークリエの小嶋さんと)
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posted by いく at 04:02| Comment(0) | ぷらっと呟く。…つぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする